RN建設 創業100周年記念誌
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7創業期創業期 1914(大正3)−1945(昭和20)羽田空港第1期埋立工事め、施行は見送られた。 そのような折、1923年に関東大震災が発生した。震災復興にあたった復興院の長岡外史は、東京湾の埋立地に国際飛行場を建設する必要性を訴え、その候補地の一つに羽田付近を挙げた。当時の羽田は遠浅の干潟が続き、かつては日本飛行学校が干潟を滑走路として使用していた。長岡はさらに羽田国際飛行場設置案を建議したが、計画は頓挫した。その後、政府は1926年に定期航空輸送の国策企業設立の計画実現に動き出した。定期航空輸送が国の手で本格化すれば、そのための飛行場も必要になるはずであった。 この頃、東京湾埋立株式会社(鶴見埋築が改称)で埋立工事に全力を注いでいた渡辺は、この計画を知り、「時が来た」と行動を起こした。当時は第一次世界大戦後の戦後恐慌と関東大震災の復興のさなかで、先の読めない不透明な時代だった。鶴見・川崎の埋立工事は最終盤に差しかかっていたが、「業を創むるは不況の時」という信念から、不退転の覚悟で浅野の下を退き、羽田沖の埋立工事のために1926年5月5日、かつての職場で指導を仰いだ山形(1921年に台湾総督府土木局を退官)と、飛島組(現 飛島建設)代表取締役の飛嶋文吉とともに後に当社の母体となる匿名組合を結成した。日本が新たな時代に向かおうとする潮流のなかで、渡辺が事業の成功を望み、ついに自らの道を歩み出した瞬間だった。 渡辺は遠浅の羽田沖の埋立(荏原郡羽田町鈴木新田埋立工事)に当たり、1927(昭和2)年、最先端の大型土工機械であるポンプ式浚渫船第一臨海丸(750馬力)を建造した。台湾で浅野から最新のポンプ式浚渫船の話を聞き、東京湾埋立でその浚渫船を使いこなしてきた機械技術者として、自ら浚渫船の設計・製造を手がけることは夢であった。 渡辺は第一臨海丸を用いて羽田沖約5万坪の埋立工事を進めた。この工事は将来的に小型プロペラ機用の飛行場として整備されるものであり、今日の東京国際空港と比べれば猫の額ほどに感じられる規模であった。しかし、ポンプ式浚渫船により広大な埋立地がまたたく間にでき上がっていく工事の様子を見た周囲の人々は、感嘆の声を上げたという。 こうして1927年4月に羽田沖の埋立工事を無事に完了すると、同月、政府は待ち構えていたかのようにこれまで見送っていた航空法の施行を決定。その後、飛行場設置に向け羽田の埋立地を選定し、1930年1月には飛嶋からこの土地を購入。飛行場としての整備が急ピッチで行われ、1931年8月に東京飛行場として開港した。

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