武託6のりたけほうたく渡辺了武創業者・渡辺了武 当社の源流のひとつ、りんかい建設の創業者が渡辺了年に熊本県飽に生まれ、1903年に郷里熊本の第五高等学校工学部(戦後、熊本大学工学部に継承)に入学し、機械工学科で専門知識を修得した。卒業後は専門性を活かすため当時日本の統治下にあった台湾に渡り、1907年7月、総督府基隆築港局に就職。ここで同局に在籍していた台湾における築港の第一人者である山形要助技師と出会う。 山形の下で港湾工事に意欲を燃やしはじめていた1916(大正5)年、台湾で築港にも関わっていた浅野財閥の創始者浅野総一郎に巡り合った。浅野は鶴見から川崎にわたる大規模な埋立に取り組むため鶴見埋築株式会社を設立し、山形に埋立地の設計を依頼するとともに、顧問に迎えていた。このとき浅野が渡辺に語った最新鋭の電気サンドポンプ式浚渫船の話が青年機械技術者の胸を揺さぶった。ポンプ式浚渫船は山形が過去に欧州視察で目にしたもので、当時日本で主流であったバケット浚渫船に比べ、浚渫と埋立を同時に行えるという大きなメリットがあった。鶴見埋築では、山形の助言でこれを輸入していたのである。 ちょうどこの頃、日本の産業は1914年に欧州で始まった第一次世界大戦の影響を受けて活発化し、船舶輸送のための港湾施設や産業用地としての埋築工事が急務となっていた。浅野の鶴見埋築でも、埋立のスピードを上げる必要に迫られていた。そこで山形は浅野に渡辺を推薦し、1919年10月、渡辺は日本に戻り鶴見埋築の埋築部長に就任。渡辺は浅野の指導の下、埋築工事の現場を率いて指揮を執り、5隻のポンプ式浚渫船を最大限に活用し、埋立地を拡大させた。羽田沖の埋立と当社の母体の設立 1918(大正7)年に第一次世界大戦が終結すると、この戦争で新たな武器として欧米で著しい発展を遂げた航空機は、飛行場とともに軍から民間へと転用され、民間航空輸送が開花した。欧米諸国では民間航空会社が誕生し、日本もこうした国際的な流れのなかにあった。1919年には、民間航空に関する国際航空条約を締結するための国際会議が開かれ、日本もこれに参加し、同年10月に調印した。この結果、国内において法制を整備し、民間航空を指導監督する行政機関を設置する必要が生じた。こうして1921年4月、航空法が公布されたが、日本の民間航空は、郵便輸送が開始されたばかりであったた 当社の源流は二つある。一つは機械技術者であった渡辺了武が1926(大正15)年、羽田沖の埋立工事を目的に設立した匿名組合(後の臨海土木工業所)である。もう一つは日立鉱山で世界一の煙突を建設した久原鉱業のエンジニア宮長平作の下、関東大震災の復興のため1924年に開設された久原工事部(後の日産建設)である。当社はここから大きな飛躍を遂げていくことになる。である。渡辺は1885(明治18)郡西里村(現 熊本市の一部)りんかい建設の創業若き機械技術者、日本の港湾を築く創業期1914(大正3)−1945(昭和20)
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