20新橋演舞場新橋演舞場㈱兵庫県 戦後の1940年代後半は、埋立や陸上での土木・建築工事がまだ少なく、当社は厳しい環境にさらされていた。1950年代に入ると産業基盤確立のため港湾の埋立造成工事や造船所の建設が進み始め、ビルや道路の建設ブームも起き、当社の業績は一気に拡大した。こうしたなか、当社は独自の工法を開発するなど技術力の向上に努めていった。海上土木 建築神崎川災害復旧工事新橋演舞場改修工事 神崎川は淀川水系の主要支川であり、戦前に着手された改修は戦時中に中断され、戦後に流域整備の要として再開された。また大阪湾岸では、終戦直後に発生した枕崎台風の被害を受け、1946(昭和21)年度をめどに西大阪一帯で応急復旧が進められており、流域の治水の再建も急がれていた。 こうしたなか当社は戦後最初の工事として、神崎川河川復旧工事に従事した。工事に当たっては、広島港で浸水沈没した「熱田丸」を修埋して使用した。1946年3月に着工したものの、同年10月の竣工に至るまで、電力統制や物資不足、賃金高騰に苦しまされることになった。 1945(昭和20)年5月の東京大空襲で、銀座は一面の焼け野原となり、歌舞伎座は全焼、新橋演舞場も大屋根が落ち、煉瓦造りの外壁だけがかろうじて残っただけであった。戦後、松竹では全焼した歌舞伎座の再建より、まずは外壁の残った新橋演舞場を再建して、一日も早く興行を再開しようということになった。 改修工事は当社が当たることになり、構造計算については、当時は東京都ではなく警視庁で審査を受けることになった。1947年1月に着工、翌1948年3月に戦後最初の劇場として再開場した時には、世間の注目を浴びることになった。こけら落としとして改築落成開場式記念興行と銘打った興行が3日間行われた。形成期1946(昭和21)−1965(昭和40)1946 昭和21年1948 昭和23年
元のページ ../index.html#22