RN建設 創業100周年記念誌
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日産館(1960年代には三井物産本社)勝鬨橋銘板日産自動車横浜工場渡辺製鋼所勝鬨橋橋脚内設備工事東京府(現 東京都)日産自動車㈱日本産業㈱海上土木 建築建築日産自動車横浜工場建設工事日産館新築工事 日本産業では、自動車産業の重要性を認識し自動車工場の建設を計画した。当初、深川の越中島において工場建設を開始したが、拡張余地がないため中止し、1933(昭和8)年に横浜市神奈川区宝町の埋立地に2万5,000坪の工場を建設することとなった。建設・施工は、日本産業の直系子会社となっていた当社・中央土木(後の日産建設)へ特命が下った。 この工場は、日本初の自動車工場で、第1期工事は3,000坪、57万円に及ぶ当時随一の大工事であり、不況にあえいでいた当社にとって天恵となった。1934年に戸畑鋳物の自動車部から改称した日産自動車は、戦時色が強くなるにつれて大規模な工場拡張を進め、宝町やその他の埋立地にも新たな工場を建設し、当社はこれらも手がけた。なお、当初設計は社外に依頼したが、その後は当社で設計を行った。 巨大コンツェルンに成長した日産は、久原鉱業時代から本拠としてきた丸の内の統合事務所では手狭となり、新たに日産館の新築を計画した。1934(昭和9)年に決定し、特命で当社に発注された。建設場所は東京府(現 東京都)芝区田村町1丁目で、敷地面積は約4,165㎡、鉄骨鉄筋コンクリート造の地下1階地上8階建であった。 1937年に竣工した日産館では、同年7月に修祓式が開催され、一般に公開された。花崗岩が貼られた白亜の外観で、内部には近代設備を備えていた。当時の芝区随一の威容を誇り、人々の目を惹く存在となった。計画当初は日産本社のほか、直系子会社も収容する見込であったが、この巨大な日産館をもってしてもそれは不可能だった。それほど日産の発展・拡大は急ピッチだったのである。 1930(昭和5)年、東京市が決定した東京港修築工事のなかに、築地と月島を結ぶ勝鬨橋の架橋が盛り込まれていた。当時、築地と月島を流れる墨田川には大型船舶が航行していたため、船舶が通れるように橋の中央が左右に跳開する双葉跳開橋が採用された。この跳開設備には、大、中、小の5段の歯車が必要だった。 この大歯車の鋳造を1932年7月に設立された渡邉製鋼所が請け負った。架橋工事は4期に分けられ、1期の護岸工事は1932年11月に着工、2期は橋脚工事と月島側鋼アーチの架設工事と続き、3期工事として渡邉製鋼所の歯車を用いた工事が行われた。納期が短かかったため、社員は1日おきに徹夜して製造した。その後、4期築地側鋼アーチの架設と道路工事が完了し、勝鬨橋は1940年6月に竣工した。創業期 1914(大正3)-1945(昭和20)19創業期1936昭和11年1937昭和12年1940昭和15年

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