RN建設 創業100周年記念誌
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お茶の水橋羽田空港第1期埋立工事 工事中の日立鉱山大煙突東京府(現 東京都)石黒七三郎久原鉱業㈱復興局陸上土木海上土木 陸上土木陸上土木日立鉱山大煙突一ツ橋新設工事羽田空港第1期埋立工事お茶の水橋改築工事 茨城県日立市の日立鉱山は、1905(明治38)年に設立された鉱山である。日本有数の銅山として産出量を誇ったが、亜硫酸ガスによる煙害問題が発生した。その対策として、高い煙突の建設が必要となった。当時設計を担当したスタッフのなかに、日立鉱山の工作課技師であった宮長平作がいた。宮長は煙突の建設に当たり、足場は外に組む工法を採用した。しかし標高328mの山頂に建築することになったため、強風が吹くなどの際は非常に危険が伴った。 155.7mのこの煙突は「大煙突」と呼ばれ、米国にあった煙突を抜き世界で最も高い煙突となった。宮長はその後、佐賀県の佐賀関製錬所で166.7m、朝鮮の鎮南浦で181.8mの煙突を建設。図らずも煙突の高さの世界記録を3度樹立することとなった。18 1923(大正12)年の関東大震災は東京市内に甚大な被害をもたらした。当社は創業当初から東京・横浜の復興工事に最も力を注いでいった。土木工事を重点に工事を行い、1924年に東京市から出雲橋改築工事を、復興局から一ツ橋新設工事を受注した。一ツ橋新設工事は1924年10月に着工し、翌1925年10月に竣工した。鈑桁橋で全幅27m、橋長は30mであった。 これを機に、当社は復興局、東京市、横浜市から橋梁工事を受注するようになり、橋梁に関しては業界でも群を抜くまでになった。 政府が1926(大正15)年に定期航空輸送の国策企業設立の計画実現に動き出したことで、民間航空用の国際空港建設の機運が高まっていた。遠浅の羽田沖はかつて飛行場建設の候補に挙がったこともあり、渡辺了武は羽田沖の埋立工事を計画し1926年5月、かつての職場で指導を仰いだ築港の第一人者の山形要助と、飛島組(現 飛島建設)代表取締役の飛嶋文吉と匿名組合を結成した。渡辺は遠浅の羽田沖の埋立に当たり、翌1927(昭和2)年、最先端の大型土工機械であるポンプ式浚渫船第一臨海丸(750馬力)を建造した。渡辺はこの第一臨海丸で羽田沖約5万坪の埋立工事を進めていった。1927年4月に羽田沖の埋立工事を無事に完了すると、政府は飛行場としての整備を急ピッチで進め、1931年8月、東京飛行場として開港した。 関東大震災では東京市内の多くの橋梁が被災したが、お茶の水橋も例外ではなかった。木材の床版が焼失し、神田川沿岸の崖地では土砂崩れが発生して河床が変動した。久原工事部の宮長は、東京、横浜の復興橋梁改修に早くから従事し、東京市、横浜市合わせて50以上の橋の改築に携わった。お茶の水橋もその一つであった。 1931(昭和6)年5月、新たな橋は鋼製ラーメン構造(π型ラーメンプレートガーダー)で架替され、橋長80m、幅員23.84m(車道幅16.6m、両歩道各3.2m)に拡幅された。設計は東京市(当時)、施工は横河橋梁製作所が行った。橋脚はRC壁式杭基礎、橋台は逆T式直接基礎で、主要鋼材はSS39、床版は最厚340mmとの調査値がある。下部と桁はヒンジ連結され、ラーメンゲルバー形式で設計されている。 この改築により、震災後の復興都市構造と交通需要に応じる橋梁性能を備えることとなった。1914大正3年1925大正14年1926大正15年1931昭和6年

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