創業期 1914(大正3)-1945(昭和20)17日産厚生園し、何とか完遂された。本工事では作業の機械化も図り、初めてチェーンエンドレスという巻揚機を3カ所に使用、さらに14切のミキサーを6台据え付けている。当社のドック建設技術はこれを機縁とし、第二次世界大戦終戦までに向島船渠向島分工場ドック建設工事、日立造船因島造船ドック、船台建設工事ならびに因島造船ドック改修船台新設工事を完成している。旺盛な需要の下、驚異的な発展 こうして日産系列各社の発展に伴う旺盛な需要の下、中央土木は大躍進を遂げた。創業15周年を迎えた1939(昭和14)年1月1日、新年集会の席で宮長は年賀の挨拶に合わせて、社員一同に次のように述べている。「顧みればわが社創業の大正15年より、ここ15年の間に、実に50倍という驚異的な発展を遂げました。当時はまだ若くて元気ハツラツな発地・佐藤・田添・藤木の諸君と私と僅か5人で出発したものが、今日は社員250名を数え、その工事高は当時1年30万円程度だったのが、昨年においては1,500万円を施工しており、すべてが50倍の躍進をしたわけです。これも社員諸君のご奨励の賜物であって、誠に感謝に堪えないのであります」。 そして1940年に施工高は年間2,800万円を超え、社員数も約500名を数えるまでになっていた。このとき直系子会社として相応しい規模と力量を備えたとの判断から、日産土木株式会社と社名を変更している。その後も上昇軌道に乗る当社の勢いはさらに加速を続けた。 1940年11月23日、皇紀2600年記念事業として、日産関係各社従業員およびその家族の健康増進と親睦ならびに修養のために、東京府下井の頭公園の南隣地3万3,000坪の地に、当社の設計・施工によって完成した日産厚生園が盛大に開園した。この大工事の成功は成長の弾みとなり、わずか3年後の1943年には、受注高が8,800万円を超え、社員数は811名と、驚異的な伸びを記録した。当時の日本建設工業統制組合の調査書によれば、当社は1943年と翌1944年の受注高において、大手業者10社の中にランクされている。創業以来わずか20年ほどで10社の中に仲間入りできたことは全く異例のことで、その伸展成長は驚異の目をもって迎えられた。こうした躍進を経て、宮長は建設業界の中軸を担う人物としての位置を確立。後に業界の発展に貢献する東日本建設業保証会社が設立された際には、推薦されて初代社長に就任した。 また、戦時体制が強化されるなか、徴兵・徴用により土木建築現場の労働者不足が進み、後継者の断絶と技能者不足が憂慮されたことから、土木建築業組合では私立技能養成所を設立した。宮長もその熱心な主唱者の一人であり、業界の技能の伝承に尽くした。 その後、戦時下の状況は激化し、1945年3月には、当社本社、続いて各地の出張所も被災した。そして8月15日の終戦を迎えたのである。創業期
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