創業期 1914(大正3)-1945(昭和20)15日産自動車横浜工場木戸川発電所ダメージは比較的軽かったが、数年は荒れ狂う時代の波に翻弄され、成績不振が続き、手当の減額や昇給の見送りを余儀なくされた。 一方で、宮長はそのような苦境に陥りながらも今後の発展のために地道に土台を築いておくべきと考え、積極的に地方進出を図り、全国に出張所を開設していった。最初の拠点は名古屋である。1929年に愛知県の国道改良工事を請け負ったことを契機に同地域からの受注が相次ぎ、1930年4月に名古屋出張所を開設した。また1930年7月には関西圏での受注拡大を狙い、日本鉱業大阪出張所内に大阪出張所を設置した。さらに1931年6月に宮長の郷里でもある富山出張所を、翌1932年は前年から岩手県・宮城県の工事を請けていたことから仙台出張所を開設した。1933年には、茨城県に助川出張所を開設したが、日立製作所海岸工場拡張工事の進捗とともに人員が増員され、1938年に日立出張所と改称された。同出張所はその後も、日立製作所栃木工場や茂原工場の建設工事も請けて業績躍進を果たし、1944年に県庁所在地である水戸に移転し水戸出張所となった。 厳しい状況が好転しはじめたのは、1933年頃から産業界が徐々に再生を果たし、軍需産業の勃興も相まって、工事需要が急激に高まったためである。特に系列会社の工事が増加したことは、業績の向上を力強く後押しした。日本初の自動車工場として注目を集めた日産自動車の工場建設は、不況の影響を強く受けていた中央土木にとって文字どおり天恵ともいえる案件だった。1933年10月、横浜市宝町埋立地に2万5,000坪の土地が購入され、本格的に工場建設が進められることになった。これを請け負った当社は自動車工場という特殊な工事のため、設計業務を外部に依頼、第1期・第2期を経て知見を蓄積し、第3期以降の工事については自社の現場事務所で設計まで担うようになった。第1期工事では、3,000坪の工事に対して57万円が支払われており、当時としては随一の大仕事だった。なお、中央土木は所属しているほとんどが土木技術者であったため、これまで建築工事を手がけた件数が少なく、そのすべてが赤字の連続だった。しかし、この自動車工場を手がけてから流れが一変、この工事を完了させた後も日産自動車の工場の拡張は止まらず、宝町敷地に延べ2万坪の工場事務所を建てただけではなく、大黒町埋立地および千若町その他にも大規模な工場が建設され、そのすべての設計・施工を中央土木が担当した。 1934年にはさらに木戸川発電所の建設工事を受注した。これは日立製作所への大量の電力供給を目的とした水力発電所の建設計画に際し、日立電力より当社に依頼が寄せられたことによるものである。6月に実施測量に入ると現地は保安林のため、原始林のように樹木が生い茂っており、測量は困難を極めたという。翌1935年からようやく工事に着手することができたが、工事も非常に広範囲に及び、膨大な労力を要した。工事は、まず木戸川の上流の福島県川内村に取入堰堤を設け、沈砂池を構築、そこから延長6.6kmにわたる導水隧道を掘削した。この途中に水路橋を造り、谷室に大調整池を設置。これには2,000㎥という大量のコンクリートを要した。そして調整池から圧力隧道でサージタンクに揚水し、ペンストックで落差240mの下方に木戸川発電所を設けた。この発電所の発電能力は1万5,000kWに達し、工費も150万円に及ぶなど、当時としては非常に大規模な施設だった。創業期
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