14一ツ橋お茶の水橋た。当時は橋梁が最も市民の目を引いたこともあって、「橋は宮長か、宮長の橋か」と謳われるほどであった。先に述べたとおり、こうした復興工事に奉仕の精神で仕事に臨んだ宮長の気骨が窺えるが、また別の視点から見れば、このとき人気のない復興工事に専念したからこそ、宮長は短期間で効率よく数多くの実績を積むことができ、経験不足を補って土木建築業界での存在感を急激に高められたのである。 1931(昭和6)年4月には、業界歴が8年に満たないにもかかわらず東京土木建築業組合の組合長に推挙された。工事実績だけでなく、宮長の問題意識の高さ、鋭い弁舌、明るく際立つキャラクター、そして東大卒の学歴がその立場に押し上げた要因だろう。この組合は、現在の東京建設業協会の原点であり、当時の業界の最大組織だった。宮長は三代目の組合長として、不況のどん底であった建設業界を救うため、直営工事の見直し、請負代金の仮払い、入札保証金の撤廃などを何度も省庁に要望し、業界の改善にも力を出し惜しむことなく尽力した。 この頃、震災復興が急速に進展し、東京市の道路面積の95%の舗装が完了したことを記念して、1931年6月に東京市土木局の主催により東京市道路祭が盛大に開催され、工事業者のなかから道路築造功労者として15名が表彰された。宮長はその筆頭として感謝状と銀盃三つ組を授与された。ちなみに、その際の宮長の成績は橋梁架設数で第1位、道路舗装面積で第2位、総合成績第1位であった。日産系列の需要を引き受けて大躍進 久原工事部はその後、久原鉱業が事業の形を変化させていくなかで、新たな成長の段階へと進んでいく。変化の発端は1920(大正9)年からの戦後恐慌による銅価の世界的暴落である。それまでは世界的に銅の高騰が続き、大きな利益を獲得していた久原鉱業は、勢いに乗って銅山以外の事業にも進出し、日立製作所や久原商事の創立などの多角経営に乗り出していたのだが、戦後恐慌による国産銅業界不振の影響を受けて深刻な苦境に陥り、新たなリーダーとして鮎川義介を迎えて立て直しを図った。鮎川の下で1928(昭和3)年に持株会社化を果たすと、社名も日本産業(日産)として生まれ変わり、コンツェルンとして成長を歩みはじめた。こうして所属組織が変化したため、宮長の個人名義で続けてきた土木建築事業も、日本産業の直系子会社として法人化することになった。この頃までに久原工事部は堅実に発展を遂げて中堅請負業者の地位を築いており、復興局、東京市、横浜市、鉄道省、逓信省、文部省、埼玉県その他の諸官庁から指名業者として指定されるまでになっていた。さらなる飛躍を誓う宮長は、諸官庁でも「トップ」を表す場合に用いる「中央」という言葉を使用して、1930年に新社名を中央土木株式会社と定めた。代表者は宮長専務取締役であったが、当時の社員数はわずか30名程度で年間の施工高も100万円程度であった。 しかし、この新たな門出を深刻な昭和恐慌が襲う。ニューヨーク株式市場の崩落から発生した恐慌は世界中を巻き込み、日本経済を危機的状況に陥れた。この事態を重く見た宮長は従来の営業体制を見直し、大幅な引き締めを図った。社員も一致団結してこれに呼応し、奮闘した結果、同業他社と比べ
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