RN建設 創業100周年記念誌
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13日立鉱山大煙突出雲橋工事中の一ツ橋れたものの、1916年12月には佐賀関製錬所の550尺(約167m)の煙突を完成させて再び世界一となった。このエピソードからも彼が極めて優れたエンジニアだったことが窺い知れる。恐らくは久原社長からの信頼も厚かったことで、特命の工事部立ち上げ時に責任者に抜擢されたのだろう。 工事部は震災復興という使命を背負って立ち上がったものの、当初は全くの素人集団だったため、官庁の土木工事を請け負うためには大変な苦労を強いられた。そもそも入札には一般公入札と指名入札があり、公入札は一定の資格さえあればどの業者でも参加可能だが、指名入札は官庁側が「この業者なら心配ない」と認めた業者に限られており、指名入札の方がより重要な案件を手がけることができた。警察庁の営業許可を受けたばかりの久原工事部は、指名入札案件を受けることができず、最初は公入札に参加して、ほとんど利益が出ないような小口の案件を数多く受け、丁寧にやり遂げることで、一つずつ実績を積み重ねていくしか道はなかった。そこで、毎日のように誰かが各役所の公入札の掲示板を見に行き、掲示された図面や仕様書を写し帰ってきては見積りを作成するという地道な努力が続けられた。しかし、久原工事部の社員たちは従来の請負業者と少し毛色が異なっていたため、既存業者から疎まれ、嫌がらせを受けることもあった。ある小柄な社員は図面を写していると、屈強な同業者に図面をひったくられ、「おまえは後にしろ」と凄まれたこともあるという。このように、当時の工事請負業者というのは、粗野・粗暴な人材が多いというのが世間の常識だった。他方、宮長らの一団は専門学校を出た者ばかりであったため、周囲からは学歴と品の良さを備えた「インテリ請負人」と見られていた。実績はまだ数えるほどだったが、粗悪工事が横行するなかで丁寧な仕事ぶりが評価され、相談をしても話がすぐに通じる知識豊富な業者だと噂になり、評判を高めていった。 辛抱の期間は半年に及び、ようやく指名入札に参加できる立場になると、1924年10月に、久原工事部は出雲橋改築工事、一ツ橋新設工事という大型工事を立て続けに受注した。落札金額はそれぞれ7万5,800円、20万713円であり、これまで手がけていた工事とは桁違いの規模であった。これを皮切りに漸次発展の一途をたどり、創業初年度の1924年2月から翌1925年10月の受注額合計は62万円に達するに至った。出雲橋を完成させた際には、関わった全員が感極まって祝杯を挙げ、「復興の魁・新装せる出雲橋」と題して、完成写真を事務所に掲げたという。 その後も宮長らは、東京・横浜の復興工事に尽力し、特に橋梁と道路工事では抜群の実績を残した。出雲橋を皮切りに東京市に40橋以上、横浜市に10橋以上を完成させ、いずれも工期の迅速さと施工の確実さで高い評価を受け創業期創業期 1914(大正3)−1945(昭和20)

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