RN建設 創業100周年記念誌
14/104

よろずちょうほう12宮長平作久原鉱業株式会社(本社)関東大震災の復興のため新事業開始 1923(大正12)年9月1日午前11時58分、突如として激しい揺れが関東地方を襲い、マグニチュード7.9の地震が発生。震源地が都市部に近かったこともあり、甚大な被害を招いた。各地で家屋の倒壊が相次ぎ、多数の死傷者が発生した。同年12月10日には京浜一帯で97万人も人口が減少したと報じられている。この被害に対し、全国各地や海外からさまざまな寄付が集まるなか、鉱山業を営んでいた久原鉱業は、震災により消失した都内の公立小学校9校の復旧支援を表明。このとき応急で学校建設工事を担当した責任者が、若きエンジニア宮長平作だった。久原鉱業の定款には土木請負業が含まれていなかったため、復旧のための工事を会社の事業として手がけるためには、定款の改定から行わなければならなかった。そこで社長の久原房之助は、まず社員の個人名義で始めようと考え、1924年2月に技師の宮長平作に土木・建築請負業の営業許可を取得させ、復旧支援業務の陣頭指揮を任せた。事務所は久原鉱業本社の2階の一部があてられた。 こうして急遽結成された宮長を中心とする少人数の工事部隊は小学校を復旧させた後も、震災で崩壊した街を復旧させる事業を継続した。土木建築業界での最初の仕事が震災復興工事であったことは、いかにも宮長にふさわしいスタートであった。すなわち、当時一般に業界から歓迎されなかった復興工事を率先して請け負い、受注量では第1位を示すほど努力を傾けているのは、利益優先といった考え方から離れて、土木建築人としての心構えを示している意味でも、宮長の企業理念の一端が如実に発揮されているからである。この宮長の「奉仕の精神」はその後も脈々と受け継がれていったのである。 こうして、当社のもう一つの源流、日産建設は、この新事業「久原工事部」の立ち上げをもって始まった。 創業者宮長平作の経歴を振り返ると、出身は富山県射水郡水口村で、豪農の次男坊として生まれた。若き日の宮長は文学を愛する少年であり、少年時代から当時最大のメディアだった萬した。しかし、進路選択の際は、父親の意見を尊重し、東京大学土木工学科に進学する。多くの同窓生がエリート官僚への道を志すなか、宮長は他と同じ道を進まず、あえて民間に活躍の場を求めて久原鉱業に入社し、日立鉱山の工作課技師となった。その後は技師として研鑽を積んでいく。当時の宮長を知る手掛かりとして、世界一の煙突合戦というエピソードが残されている。これは鉱山施設において、煙害を軽減するためにどれだけ高い煙突を設置できるかが建築の技術力を示す一つのモノサシとなっていた時代のこと、日本とアメリカが煙突の高さの記録争いを繰り広げるなかで、アメリカの記録を二度も塗り替えたのが宮長だった。最初の記録更新は1914年12月のとき、彼が設計と監督を担当した日立鉱山の地上511尺(約155m)の煙突が完成し、当時の世界一の記録を更新した。その後、すぐにアメリカに記録を塗り替えらの懸賞小説に当選する才能を発揮朝報日産建設の創業崩壊した街から、新時代へ橋を架ける

元のページ  ../index.html#14

このブックを見る