11戦後の広島出張所係者が担当し、造船所建設を主体として進めるよう強制された。一方、第3区には需要の増大に応えるため渡邉製鋼所の広島分工場を建設する予定であったが、起工から1年後に海軍から建設を中止させられ、資材を三菱重工業に譲渡せざるを得なくなった。渡辺了武の逝去と終戦 当社は順調に成長を遂げていたが、戦時色が濃くなるとともに軍関係の埋立工事も手がけるようになった。業界では、前述の水曜倶楽部が軍の要請を受け、軍関係の埋立工事への協力態勢を固めることを目的に、1940(昭和15)年に埋立協力会に組織を変更した(戦後は解散して日本埋立協会に改組、現 一般社団法人日本埋立浚渫協会)。 陸軍航空本部の燃料廠建設が山口県岩国市麻里布に決定され、1940年3月にその敷地の造成工事(陸軍航空本部マネ土第一工事)を開始した。これは本来、興亜石油(現 ENEOS)の石油精製工場敷地として埋立・造成が行われる予定だったが、予定地の3分の2を軍部が徴用したことで、当社は将校の監督下で埋立を行うことになった。燃料廠の工事を進めつつ、同年9月からは隣接する本来の興亜石油工場敷地埋立工事に着手した。この間、太平洋戦争に向けた準備が進みはじめたことで工事に拍車がかかり、当社は浚渫船2隻を投入し昼夜兼行で作業を進め、1941年12月までに燃料廠分を含めて80万坪に及ぶ埋立を完成させた(燃料廠部分は1941年3月に竣工)。 1943年には愛知県半田市において軍需工場である中島飛行機半田製作所の飛行場(滑走路)造成を開始した(終戦により中断)。また、渡邉製鋼所では1939年から建造した浚渫船を海軍に納品するようになり、1942年に造船統制令が発令されると、翌1943年には海軍管理工場の指定を受け、海軍省の監督下に置かれることになった。 一方、渡辺は1942年頃から体調を崩しはじめていた。療養を続けつつ、それでも精力的に現場を巡っていたが、戦況が悪化の一途をたどりはじめた1944年、東京大学医学部附属病院に入院し、同年10月、治療の甲斐もなく帰らぬ人となった。享年60であった。これを受け、渡辺廉一が社長に就任し、事業を継承した。 亡き了武が完成を心待ちにしていた広島工業港の渡邉製鋼所広島分工場については、前述の通り1944年6月に軍の方針で建設が中止された。その広島工業港の埋立現場をさらなる悲劇が襲う。1945年8月、広島市に原爆が投下され、市内は灰燼に帰し、約14万人が亡くなった。 当社の広島出張所は爆心地から離れていたため、全壊は免れたが、社員1人が犠牲となった。かろうじて雨露をしのげる程度に残った出張所は、直ちに原爆被害者の収容所となった。 1945年4月に東京では強制疎開により本社事務所を荏原郡大井町の大井庚塚町(廉一社長の自宅、現 品川区大井)に移転し、そこで8月の終戦を迎えたのである。創業期創業期 1914(大正3)−1945(昭和20)
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