RN建設 創業100周年記念誌
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10けて施工された山口県の山陽パルプ麻里布工場敷地埋立ならびに築堤工事において、1938年1月2日に堤防決壊の事故が発生した。この時、得意先回りをしていた渡辺は正礼装のまま直ちに現場へ駆けつけ、スコップを手に陣頭指揮を執った。当社初となったこの事故は、幸いにも池の堤防であったため被害は他に及ばなかった。事故こそあったものの、1936年に就航したばかりの渡邉製鋼所製1,000馬力のポンプ式浚渫船第一臨海丸が第三臨海丸とともに投入され、20万坪の埋立を10カ月で完成させ、当時の当社の記録を樹立した。ただ、浚渫船での作業は過酷を極め、兵役経験のある作業員でさえ「臨海は(戦場より)きつい」と音を上げるほどであったという。 この頃に手がけた主な工事としては名古屋港大江埋立工事(愛知県)、朝鮮咸興府埋立工事(現 北朝鮮咸興市)、住友別子鉱業中山川尻埋立工事(愛媛県)、猿猴川浚渫埋立工事(広島県)などが挙げられる。これらの案件を通じて着実に請け負う仕事の幅を広げ、事業を拡大させた。 この内、1935年6月から同年12月にかけて施工された名古屋港大江埋立工事では、第三臨海丸を投入して天白川を浚渫し養魚場を埋立てた。難しい工事であったため、翌1936年に土地区画施行委員より感謝状が授与された。「広島工業港の生みの親」となる 1940(昭和15)年7月から着工された広島工業港修築工事は、大規模で長期にわたるものとなった。広島市南方海面約100万坪を埋立てる広島工業港修築工事を3社連帯契約(当社、水野組〈現 五洋建設〉、佐伯組)で着工することになった。この計画は渡辺の発案に基づくものであり、渡辺は自らを「広島工業港の生みの親」と自負していたという。 この埋立工事は本来、元安川河口以東から草津町沖までの海面約132万坪を埋立て、付近の水路を浚渫して大型船の泊地を造成するとともに、埋立地に企業を誘致して大工業地帯を建設する構想であった。しかし、戦時体制に即応するため、当面の埋立地は約100万坪に縮小され、工期も10年から3年に短縮された。 縮小されたとはいえ、広島工業港埋立工事の総工費は約2,000万円にのぼり、約100万坪の埋立費はそのうち約1,200万円と見積もられていた。県営の工事であったため県には予算がなく、埋立地を売却して工事費を賄うという計画となっていた。さらに、埋立用地の3分の1を連帯契約の3社が立て替えて購入するという条件付きであった。そのため渡辺は、埋立前の水面下の土地を埋立地代として購入することから始めることとなった。 工事は3社が区分して請け負った。渡辺は当社の主力となる人材を広島に集結し、新たな浚渫船も投入して本工事に臨んだ。これにより担当する江波町沖の第3区・第4区は竣工から3年で、全工事の約80%を完成させることができた。しかし、1941年に太平洋戦争が勃発し戦争が激しくなると、浚渫船は徴発され、電力も制限され、作業員も徴用されるようになり、工程能率は減退の一途をたどった。さらに1942年8月には、戦時中であることから台風の接近予報が発表されず、現場が暴風雨と高波に襲われ甚大な被害を被った。 1943年になると、県の工業港の計画は一転、当社の担当する第4区は三菱重工業広島造船所建設へと変更され、埋立工事の施工は三菱重工業の建設関

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