RN建設 創業100周年記念誌
11/104

9創業期創業期 1914(大正3)−1945(昭和20)臨海土木工業所本社(品川区大井滝王子町)勝鬨橋銘板この時期の埋立工事では人夫を雇って工事に対応せざるを得ない状況が続いた。また、仕事も少なくなり、大倉組からの下請として兵庫県武庫郡鳴尾村の埋立工事を行ったときは浚渫船をチャーターする有様であった。さらに、ちょうど渡邉製鋼所が稼働を始めた時期でもあり、資金繰りが苦しく現場員の給料支払いが遅延することもあったという。 それでも渡辺は、1934年2月に合資会社臨海土木工業所を設立(代表社員渡辺了武、資本金25万円)、5月にはそれまでの丸の内から品川区大井滝王子町(渡辺の自宅)に移転。さらに1936年1月には、資本金50万円をもって株式会社形態へ移行した。当時在籍していた社員は、会社の様子を「各界から有為な人材が集まってきており、寄り合い所帯の感じもしましたが、創業の意気に燃えて、仕事も順調に伸びていた」と語る。港湾や産業施設用の土地開発が急ピッチで進む日本において、埋立工事の需要は大きく、社員たちは年末年始の休みさえ返上して施工に明け暮れていた。 なお、1931年4月、当社は埋立業の協調発展を目的に、佐伯組(現 あおみ建設)、阪神築港(現 東洋建設)、尼崎築港(浅野が設立)、東京湾埋立(現 東亜建設工業)、港湾工業(後に東京湾埋立と合併)とともに水曜倶楽部を結成した。勝鬨橋の大歯車の製造 この頃、渡辺は機械技術者としてもさらに評判を高めていく。1930(昭和5)年、東京市は東京港修築工事を決定し、この計画の一環として築地と月島を結ぶ勝鬨橋の架橋が盛り込まれていた。当時、築地と月島を流れる墨田川には大型船舶が航行していたため、設計にあたっては、船舶が通れるように橋の中央が蝶の羽根のように左右に跳開する双葉跳開橋を採用していた。この跳開設備には、機械設備、電力設備、制動設備などが必要とされ、特に機械設備は約2,000tもの可動桁を最小限の力で動かすため、大歯車、中歯車、小歯車の5段で構成されていた。 この心臓部とも言える大歯車の鋳造を渡邉製鋼所が請け負ったのである。架橋工事は4期に分けられ、第1期の護岸工事は1932年11月に着工、第2期は橋脚工事と月島側鋼アーチの架設工事と続き、第3期工事では中央の可動桁架設とともに渡邉製鋼所の機械設備工事が行われた。納期が短かかったため、社員は1日おきに徹夜で製造していたという。 その後、第4期として築地側鋼アーチの架設と道路工事が完了し、1940年6月に竣工した勝鬨橋は「東洋一の可動橋」と謳われた。 この間の1936年には、紀元二千六百年記念日本万国博覧会が1940年に開催と正式決定された。会場は現在の晴海から豊洲を中心に計画され、建設中の勝鬨橋はそのメインゲートと位置付けられた。 しかし、同時期に日本は軍事体制へ突入し、万博も日中戦争の激化で中止となった。発展・拡大する埋立事業 事業が拡大するなか、渡辺は毎月1回必ず各工事現場を巡視し、現場の指導にあたっていた。そうした折、1937(昭和12)年9月から翌1938年8月にか

元のページ  ../index.html#11

このブックを見る