8第三臨海丸渡邉製鋼所電気炉 この埋立工事がりんかい建設の創業時の最初の工事である。埋立規模の拡大と浚渫船の建造 1927(昭和2)年4月に羽田飛行場の埋立工事を無事に完了させた渡辺は、同年5月、事務所を丸の内海上ビル6階に開設、渡辺事務所と命名して本格的に事業を開始した。それから間もなくして、渡辺は事業にふさわしい社名にするとして、臨海土木工業所と命名し、黒塗に金文字の看板を掲げた。1928年には東京湾埋立から社員が異動してきたことで、事業拡大に向けた体制が整ってきた。 極度の不況下にもかかわらず、仕事は次々に舞い込んだ。富山県伏木港工事(1928年6月着工、1929年12月竣工)、蒲郡埋立工事(1928年頃)、清水港修築埋立工事(1928年7月着工、1930年6月竣工)と続き、清水港では1929年に第二臨海丸(200馬力)を建造し、第一臨海丸と2隻で工事にあたった。 その後、埋立工事の規模は拡大した。福岡県博多港では1927年に国から第2種重要港湾の指定を受け、1929年から博多港の整備(第1期の中央ふ頭整備)が始まった。当社はこれを受注し、1932年8月までにおよそ23万坪を埋立てた。これにより福岡市は九州の拠点都市としての位置を強固にし、第1期工事の竣工を記念して1936年には博多築港記念大博覧会を開催するほどであった。 同時期に行った大阪南港埋立工事(1929年8月から1930年12月)は大阪市木津川尻約25万坪、大和川尻17万坪と羽田沖をはるかに超える埋立工事を完遂した。これに伴い新たに750馬力ポンプ式浚渫船4隻(第三、第四、第五、第六臨海丸)を建造し、現場に投入した。 当時、埋立事業の成否を握っていたのは、ポンプ式浚渫船の性能であった。浅野の鶴見埋築では、輸入したポンプ式浚渫船が350馬力で能力不足であったため、750馬力に改造して使用していた。そこで機械技術者である渡辺は、ポンプ式浚渫船を自ら製作、使用しながら課題点を洗い出し、さらに改良を重ねるという手法を採用することで性能の高い船を造り続けていた。この現場経験に基づくポンプ式浚渫船の評判は高まり、他社からも購入したい旨の要望を受けるようになった。こうした需要に応じるため、1931年6月に機械部を立ち上げ、土木用機械の製作・販売を開始。さらに羽田飛行場の対岸に土地を購入し埋立て、工場を建設、1932年7月には機械部を分離・独立させて渡邉製鋼所を創立した。工場の火入れ試運転は1933年7月に行われ、機械技術者としての渡辺は非常に喜んだという。真の独立を果たし、苦労のなか事業拡大を目指す 1931(昭和6)年3月、渡辺は土木建築請負業の許可を取得した。渡辺はこれまでの三者による匿名組合を解消し、独立を果たすという構想を抱いており、許可取得はそのための第一歩であった。渡辺は飛嶋と山形と話し合いを重ね、1933年5月、三者の匿名組合を解散し、念願の真の独立を果たした。こうして渡辺の個人経営となった臨海土木工業所は、新たな海に漕ぎ出していった。 しかし、匿名組合の解散後、渡辺の手元に残ったポンプ式浚渫船は第三臨海丸1隻のみ、社員も20名足らずと浚渫船は運転者不足に陥った。このため、
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